『ニンテンドー3DS』ソフトメーカークリエーター 篇
第1回:『レイトン教授と奇跡の仮面』
1. 『ドラクエ』が人生を変えた
- 岩田
- 今回は、3DSと同日発売予定の『レイトン教授と奇跡の仮面』を
制作されているレベルファイブ(※1)の日野さんに
お訊きしたいと思います。
日野さん、今日はご足労いただきありがとうございます。 - 日野
- こちらこそ、よろしくお願いいたします。
レベルファイブ=福岡市に本社を置くゲームメーカー。日野晃博氏が代表を務める
- 岩田
- 日野さんとわたしは、年齢的には9つ違うので
時代は違うのですが、
最初はビデオゲームのプログラムをつくっていたことや、
その後制作チーム全体を見るようになって、
やがて会社経営を始めたという経験においては
共通するところが多いですよね。 - 日野
- なるほど、僕もプログラマー出身ですからね。
- 岩田
- まず、最初にお訊きしたいんですけど、
日野さんは、どんなことがきっかけで
プログラムをつくるようになったんですか? - 日野
- 僕が最初にこの世界に興味を持ったのは小3のときで、
当時はマイコン(※2)っていう
コンピューターゲームの世界があったんです。
それで、ゲームはこういうものでつくられているんだ
ということを知って、いつかこういうものがほしいと
思いながら、雑誌や本を読み始めたんです。
マイコン=マイクロコンピューターの略。
- 岩田
- 日野さんが小3のころ、わたしは大学1年くらいでした。
まだパソコンという言葉がない時代ですよね。 - 日野
- そうですね。いまでもすごく印象に残っているのは、
ある雑誌にコンピューターゲームの『ウィザードリィ』(※3)
の記事がありまして、宝箱の画面写真に
「どうする?」って書いてあったんです。
でも当時、日本には『インベーダー』(※4)しかなかったから
コンピューターゲームという感覚がないし、僕も子どもだったので
キーボードを打つという概念もなかったんですね。
だから「どうするって言われても、どうしたら・・・!?」
っていう感じで(笑)。
『ウィザードリィ』=1981年に発売されたパソコン用の3DダンジョンRPG。コンピューターロールプレイングゲームの元祖として知られる。
『インベーダー』=『スペースインベーダー』。1978年に登場したアーケードゲーム。
- 岩田
- 『インベーダー』でレバーとボタンは知っていても、
パソコンのコンピューターゲームから「どうする?」
と言われても、何をしたらよいのかまったくわからなかったんですね。 - 日野
- はい。それですごい興味を持ったんです。
「いったい、どうやって遊ぶゲームなんだろう!?」って。 - 岩田
- つまり画面写真を見て、どうやって遊ぶのかを想像して
ワクワクしたところに、日野さんの原点があったんですか。 - 日野
- そうです。実際にパソコンを買ったのは小6くらいでした。
- 岩田
- 興味を持ち始めてから、パソコンを手に入れるまで
3年かかったんですね。 - 日野
- お年玉を貯めて、やっと買ったんです(笑)。
うちは親戚が多くて、お年玉だけはたくさんもらえるので。 - 岩田
- なるほど。ということは、日野さんの親戚が多くなかったら、
世のなかに『レイトン教授』(※5)は
生まれていなかったかもしれないということですね(笑)。
『レイトン教授』=『レイトン教授』シリーズ。ナゾトキ・ファンタジーアドベンチャー。1作目『レイトン教授と不思議な町』が2007年2月、ニンテンドーDS用ソフトとして発売され、その後全4作が発売されている。
- 日野
- はい、そうなります(笑)。
そこからプログラムを覚え始めたんです。
しばらくはBASIC(※6)という初心者用の言語で
つくっていたんですけど、
本格的にやるにはマシン語(※7)が必要とのことだったので、
しばらくしてマシンを新しく買い直して、
DUADというアセンブリ言語(※8)を買ったんです。
BASIC=プログラミング言語の種類のひとつ。
マシン語=コンピューターが直接解釈・実行できるプログラムのこと。数字(内部的には2進数)の羅列で表される。
アセンブリ言語=プログラミング言語の種類のひとつで、コンピューターが直接解釈・実行できるマシン語と1対1に対応した言語。マシン語は人間には理解しにくいので、それを人間にわかりやすく記述できるようにした最もコンピューターに近い言語。
- 岩田
- そこから日野さんのプログラマー人生が
本格的にスタートするんですね。
興味を持ったビデオゲームの世界に近づくためには、
当時はプログラムを自分でつくる以外に
方法が思いつかなかったということですか? - 日野
- そうです。その時期はちょうど堀井さん(※9)が
エニックス(※10)さんのソフトウェアコンテストで入賞したころで、
僕もエニックスさんに電話して、
どうやったら応募できるのか聞いたりしていたんですよ。
堀井さん=堀井雄二さん。『ドラゴンクエスト』シリーズの生みの親。
エニックス=1975年設立。『ドラゴンクエスト』シリーズなどを発売し、2003年にスクウェア社と合併し、現スクウェア・エニックスとなる。
- 岩田
- その日野さんが、20年後に『ドラクエVIII』(※11)や『IX』(※12)を
堀井さんといっしょにつくることになるわけですから、
ご縁というのは本当に面白いですね。
『ドラクエVIII』=『ドラゴンクエストVIII 空と海と大地と呪われし姫君』。2004年11月に発売されたRPG。
『IX』=『ドラゴンクエストIX 星空の守り人』。2009年7月、ニンテンドーDS用ソフトとして発売されたRPG。
- 日野
- はい(笑)。堀井さんにはいつも話していることですが、
堀井さんと初めてお会いしたときは、感動しました。
- 岩田
- そうですよね。自分のビデオゲームの原体験で、
伝説のように存在する人が目の前にいて、
いっしょに仕事をしているんですから。 - 日野
- あの・・・正直に言いますと、僕はずっとパソコンゲームを
やっていたので、最初はファミコンには興味がなかったんですよ。
当時はゲーム画面が美しいパソコンソフトがいろいろありましたし。
パソコンゲームと比べるとどうしても、
ファミコンはグラフィックの美しさや内容量などが不満で・・・。 - 岩田
- 確かに、あのころのファミコンのロムカセットに入る容量や
画像の解像度というところで比べたら、
パソコンゲームのほうが先にいっている感じがしたんでしょうね。 - 日野
- そうです。でもそんなとき、クラス中で話題だった
『ドラゴンクエストIII』(※13)を遊んだんです。
そしたらこう、脳天に打撃を受けたというか・・・。
冒険を終えたとき、まるで卒業式みたいな感動を味わったんです。
それまで、ゲームではデジタル機器としての魅力を
感じていただけだったんですけど、『ドラクエIII』体験後は、
ゲームのことを映画のような媒体として見るようになったんです。
それがゲームの世界を見直すきっかけでした。
『ドラゴンクエストIII』=『ドラゴンクエストIII そして伝説へ・・・』。1988年2月、ファミコン用ソフトとして発売されたRPG。
- 岩田
- しかも、自分がさんざん触ってきたパソコンゲームのほうが
解像度も高くて絵もきれいなのに、
ファミコンのシンプルな表現のゲームが
自分の心をそこまで動かしたわけですよね。 - 日野
- そうなんです。だから、ゲームの持っている無限の可能性を
『ドラクエIII』で知ったんです。 - 岩田
- 『ドラゴンクエスト』の大きなポイントは、
ひとつは、いままでパソコンゲームにしかなかった
RPGという遊びを、誰でも遊べるように大衆化したこと。
もうひとつは、ゲームが初めて本格的なソーシャル性を
獲得したきっかけだったということだと思うんです。
日本中の方が同時に冒険を進行しながら、途中経過を報告しあい、
社会現象のレベルにまでなった気がしています。
しかも日野さんにとっては、その『ドラクエ』を経験することで
パソコン文化より下に見ていた家庭用ビデオゲームの
位置づけが変わったんですよね。
- 日野
- そうです。
正直、パソコンゲームでここまで感動した作品はなかったので。
要するにゲームの魅力は絵の表現だけではないってことと、
ゲームのつくり方ひとつで、
これだけ人を感動させられるものなんだってことがわかって、
ものすごく興味を持ったんです。
それで、つくることへの興味がググッと上がったというか。 - 岩田
- ビデオゲームのつくり手としての、
自分のルーツになってるということなんですかね。 - 日野
- はい。その後がちょうど就職戦線だったんですが、
『ドラクエ』の感動が忘れられなかったので
ゲームをつくることを仕事にしてみようかなと思って・・・。 - 岩田
- いわば『ドラクエ』が人生を変えたんですね。
- 日野
- はい。それでシステムソフト(※14)という会社に入ったんです。
でも当時、一般からの新卒採用はしていなかったので、
自作のグラフィックツールとRPGのゲームを持って、
自分で売り込みにいったんです。
そしたら新卒採用はしていないと言っていた会社が
面接してくれることになったので、
てっきり特別に面接してもらえると思っていたんですが・・・。
面接に行ってみると会場には40人くらいいて・・・(笑)。 - 岩田
- 全然特別じゃなかったと感じたんですね(笑)。
システムソフト=1979年に設立された、コンピューター関連企業。当時、パソコン用ソフトとして『大戦略』シリーズなどを開発・販売。本社は、福岡市にある。
- 日野
- はい(笑)。結局、合格者は3人だけだったんですが、
それでコンピューターゲームの世界に入りました。
まあ、その会社はわずか4カ月で辞めることになるんですけど・・・。
というのも、プロダクトマネージメント部門に配属されてしまって。 - 岩田
- 「あれ、プログラムをさせてもらえないの?」ということが理由で
すぐに会社を辞めることにしたんですか。 - 日野
- そうです。そこはプログラムも含めた
プロジェクトを管理する部門だったんです。
いまでこそ、プロデューサーの魅力はわかりますけど(笑)、
当時はものをつくるポジションだと思えなくて・・・。
それでプログラムを普通に学べる
リバーヒルソフト(※15)という会社に転職したんです。
リバーヒルソフト=1982年に福岡市で創業されたゲームソフト開発会社。
- 岩田
- それほどプログラムに対して情熱が向いていたわけですけど、
日野さんはプログラムを書いていて、
どんなことが面白かったんですか? - 日野
- 自分の思いどおりに処理が動くことが楽しかったですね。
- 岩田
- 確かに、コンピューターは単純なことしかできないので、
たくさんのことを組み合わせてプログラムをつくるんですが、
融通が利かないので1カ所でも間違っていると、
思いどおりに動かないですからね。 - 日野
- それを、思いどおりに使いこなせたときの喜びは大きいですよね。
- 岩田
- まるで「自分がこの世界をつくったんだ」と感じられるような
独特の達成感を、面白いと感じていたんですね。 - 日野
- はい。そんな感じです。
でも、けっこう、いままで無謀なことをやってきて
ここに来ているわけですから、
自分の思ったことに正直に生きるという方向性を、
いまだに貫いてしまっている感じです。 - 岩田
- 自分でも「無謀なことをやっている」と思ったりしたんですか?
- 日野
- それはもう、思いましたよ。
システムソフトを辞めたときは
自分でも何をやっているんだろうって・・・。
でも、このままやりつづけても自分にとって
健全ではないなと思ったので、
つらくてもいいから、好きなところにいこうと思ったんです。 - 岩田
- そういう意味では、好きを貫いて、プログラムを書いて、
達成感を味わうというサイクルができたときから、
日野さんの仕事人生がスタートした、ということなんですね。