『ニンテンドー3DS』ソフトメーカークリエーター 篇
第12回:『鉄拳3D プライムエディション』
1. 「絶対、ゲーム業界に行く!」
- 岩田
- 『鉄拳3D プライムエディション』を
手がけたバンダイナムコゲームス(※1)の
おふたりにお越しいただきました。
ご足労いただきありがとうございます。
今日はよろしくお願いします。 - 一同
- よろしくお願いします。
バンダイナムコゲームス=2006年、株式会社バンダイと株式会社ナムコが経営統合し、設立された会社。本社は東京都品川区。
- 岩田
- では、最初に自己紹介もかねて、
おふたりのビデオゲームとのかかわりから
訊いてもいいですか? - 原田
- 仕事として・・・ですか?
- 岩田
- いえ、仕事の前にもきっと
ビデオゲームとのかかわりがあったでしょうから、
そのことも含めてお願いしたいです。 - 原田
- わかりました。
『鉄拳』シリーズ(※2)プロデューサーの原田勝弘です。
僕は子どものころにですね、
親戚の喫茶店に『インベーダー』(※3)があって、
それ以来、すごくゲームが好きになったんですけど、
厳格な両親に「ゲームは一切禁止!」と言われまして。
- 岩田
- まさか将来、原田さんが頭から高層ビルに突っ込んで
小野(義徳)さん(※4)と対峙するなんて、
ご両親は夢にも思わなかったでしょうね(笑)。
『鉄拳』シリーズ=対戦型格闘ゲームシリーズ。シリーズ1作目は1994年、株式会社ナムコよりアーケードゲームとして登場。
『インベーダー』=『スペースインベーダー』。1978年に登場したアーケードゲーム。
小野義徳さん=『ストリートファイター』シリーズのプロデューサー。株式会社カプコンのCS開発統括・副統括 兼 東京制作部 部長。過去、社長が訊く『ニンテンドー3DS』ソフトメーカークリエーター篇 第5回:『スーパーストリートファイターIV 3D EDITION』に登場。
- 原田
- はい(笑)。
ファミコンも買ってもらえず、ゲームは、
友だちの家でやるか、ゲームセンターで
こっそりやるしかありませんでした。
だからその反動で、就職のときは
「絶対、ゲーム業界に行く!」と決めていました。
親はずいぶん泣いていましたけど。 - 岩田
- まだ世代的には、ゲーム業界というと
親御さんが反対された時代でしたか?
- 原田
- 僕は昭和40年代生まれですけど、
わたしの親の世代ではゲーム業界は
海の物とも山の物ともつかない感じでした。 - 岩田
- 大学ではどんな勉強をされていたんですか?
- 原田
- 僕は文系の心理学専攻だったので、
ゲーム業界とは関係ありませんでした。
縁があって、たまたま最初にナムコの内定をもらって、
はじめは制作ではなく、営業で入りました。 - 岩田
- 営業からスタートされたんですか。
- 原田
- はい。じつは“ゲームをつくる”ことさえ頭になくて、
ただ、「ゲームを遊びながら生活できたら、
どんなに自由で楽しいだろう・・・」という
妄想で頭がいっぱいでした(笑)。
いかに大勢を巻き込んで遊ぶかを考えて、
営業でゲームのイベントをやろうと思っていたんです。 - 岩田
- ひょっとしたら、ご両親がゲームの面白さに
共感してくださらなかったことに対する
反動だったのかもしれませんね。 - 原田
- そうです。じつは反動なんです!
僕の心の中から湧き出るゲームに対する情熱は、
何かに対する反動や反抗も、
ひとつの大きな要因になっています。
- 岩田
- じゃあ、営業で入った原田さんの
最初の仕事はイベントの運営だったんですね。 - 原田
- はい。ナムコが直営するゲームセンターで店員をしつつ、
お客さんを集めて『ストリートファイター』(※5)などの
トーナメントを行いました。
アーケードゲームは直接お客さんの反応が見られるので、
それが自分の中で経験値としてたまっていきました。
そのうち、「僕だったらこうするのになぁ」と思うところは、
開発に転がり込んで、提案するようになりました。
『ストリートファイター』=対戦型格闘ゲームシリーズ。1作目は1987年に株式会社カプコンよりアーケードゲームとして登場。
- 岩田
- そういうことは
最初から自由にやらせてもらえたんですか? - 原田
- いえ、本当はダメだったんですけど、
社会人1年目で何も知らなかったので、
2カ月目には勝手に開発のビルに入っていました。 - 岩田
- え? 本当に?
開発の部署って、入退室のセキュリティも厳しいですよね? - 原田
- はい、だからトイレの前で
セキュリティドアが開くのを待っていたんです(笑)。
最初はみんな「誰だ?」って顔をしていたんですが、
堂々と週に何日も行っていたら、
「この人は認められて入ってきているんだな」って、
思い込んでくれたみたいです。 - 岩田
- ・・・まぁ確かに、開発者の心理からすれば、
最前線の情報を持つ人が来てくれることは、
すごくうれしいことですからね。
それにしてもルールの破り方が面白いですね(笑)。
いつからゲームをつくる側にまわったんですか? - 原田
- ちょうど2年目の4月です。
たまたま自分がコスプレをして、
ゲームセンターでMCをしたり、
バカなことをするという集客イベントをやっていたら、
1年目の営業で社長賞をもらいまして、
そのとき、社長に
「ところで僕、部門異動したいんですよね・・・」
と直接言っちゃいました(笑)。まわりからは
「ちょっと待て待て待て!」って言われたんですけど、
「社長に言えば、なんとかなるかな?」と思ったんです。
それで4月に部門異動することになりました。 - 岩田
- はあー、制度を無視する反則ぶりが面白いですねぇ(笑)。
でも、「もっとゲームを理解してほしい!」
という原田さんの本物の気持ちが、
かかわった人全員に伝わったんでしょうね。
- 原田
- そうかもしれません。
いちばん僕が注目していたのは、
ゲームの魅力を伝えるのに
僕ひとりの声だと限界があることだったんです。
当時はネットもないのでクチコミも難しいし、
日本人は恥ずかしがり屋で、ゲームセンターでも
知らない人同士だとしゃべらないんです。 - 岩田
- 対戦格闘ゲームのブームのころは、
みんな無言で戦っていましたね。 - 原田
- はい。当時はそれをなんとかしたいと思っていました。
そこで想像したのが、学校でひとり面白い人がいれば、
その人の話題を介して周囲が会話しますよね。
そのコミュニケーションをゲームに活かそうと思って、
僕がイベントでカツラをかぶって、コスプレして
マイクパフォーマンスしたんです。
そしたら僕を中心にみんながしゃべるようになって、
ゲーム中やイベント中にも歓声が上がるようになったんです。
社会人1年目である息子のその姿を見て、
親は大泣きしましたけど(笑)。 - 岩田
- みんなが原田さんを見て会話が生まれれば、
ゲームの面白さが変わる、
ということを実践したんですね。 - 池田
- トレーナーが面白いことをやって面白いものを伝える、
という原田さんの姿勢は、いまも同じでブレてないです。
- 原田
- 僕は基本的にそういう考えです。
よく言われますけど、いいものをつくるだけじゃなくて、
どう伝えるかということも大事ですよね。
「ゲームはこれだけみんなが楽しめるものだ」ってことを、
厳格だった親にも伝えたかったんです。 - 岩田
- 部門異動して、開発の人たちに受け入れられるまで、
どんなやり取りがありましたか? - 原田
- これがまた、僕が空気を読んでいなかったんですけど・・・。
異動して2日目で、挨拶もそこそこに
「アクションゲームは全部僕の言うとおりにつくったほうがいいです」
って各セクションリーダーに言ってまわったんです。 - 岩田
- えっ? 入社2年目で開発に来たばかりなのにですか?
- 原田
- はい。いきなり「ゲームディレクター」としてやっていましたから、
まわりは受け入れてくれていると、勝手に思っていました(笑)。 - 岩田
- 池田さんは、その様子を見ていたんですか?
- 池田
- いえ、そのころ僕は
ほかの会社で映像の仕事をしていたので知りませんでした。
だから入社してからその話を聞いて、びっくりしました(笑)。 - 岩田
- ・・・いままでいろいろな
ゲーム制作者の方にお会いしましたが、
はじめてのパターンかもしれないです(笑)。
でも、こうしたほうが面白いと思っても、
そうなるとは限らないこともありますよね。 - 原田
- そうですね。
だから僕の場合、情熱というよりも“執念”なんです。
最初は意識的に、毎日最後に退社するようにしました。
「人生の半分以上、仕事に懸けている」
ってことを周囲に伝えたかったんです。
いま思えばおかしな話ですが、
でも、そこだけでもみんなに説得力を持たせようとしていたんです。
約6,000通ほどの読者ハガキが返ってきたときも、
二晩で読みおえて、表を作成していましたから。
- 岩田
- でもそれは、
単に「チーム内へのアピールのため」ではなく、
「自分たちのアウトプットに対する反応を
分析せずにはいられなかった」んじゃないですか?
たくさん現場を見て、フィードバックして、
自分の中で“かくあるべきこと”を組み立てていく、
そういうプロセスがあったんですよね。 - 原田
- そうです。そのとおりです。
お店でもアンケートでも、
お客さんからのフィードバックはいつも気になっていました。
それをいちばん知りたかったんです。