『ニンテンドー3DS』ソフトメーカークリエーター 篇
第4回:『リッジレーサー3D』
1. 『パックマン』を遊ぶチンパンジー
- 岩田
- 今日はご足労いただきありがとうございます。
今日は、『リッジレーサー3D』のことはもちろんですが
坂上さんのバックボーンも含めて、
いろいろお話をお訊きしたいと思っています。
よろしくお願いいたします。 - 坂上
- こちらこそ、よろしくお願いいたします。
- 岩田
- そもそも、坂上さんは
ナムコ(現バンダイナムコゲームス)(※1)さんに入られる前、
どんな時代に、どうやってビデオゲームと出会ったんですか?
ナムコ(現バンダイナムコゲームス)=1955年に設立されたゲームソフトの開発やアミューズメント施設の運営などを行う会社。2006年に株式会社バンダイとゲーム部門を統合し、株式会社バンダイナムコゲームスとして再スタートを切った。
- 坂上
- 僕がビデオゲームに出会ったのはゲームセンターでした。
ただ、もともと僕は映画がすごく好きだったんです。
家は兵庫県の西宮にあったんですけど、
大阪まで映画を観に行っていたんです。 - 岩田
- いくつくらいのときですか?
- 坂上
- 小学5年生の頃からはじまって、
高校3年の頃まで続きました。
小中学生が西宮から大阪に遊びに行くのは、
学校からダメだと言われていたんですけど、
実は、うちの父親が大阪で寿司屋を営んでいまして、
「お店を手伝いに行く」と言えば行くことができたんです。
で、一度『ジョーズ』(※2)を観たのをキッカケに
映画がものすごく好きになりまして、
映画館に通うようになったんです。
上映時間も確認せずに。
『ジョーズ』=巨大な人食いザメの恐怖を描いたアメリカ映画。スティーブン・スピルバーグ監督作品。1975年公開。
- 岩田
- え? 何時から上映がはじまるかも調べずに
映画館に通っていたんですか? - 坂上
- はい。というのも、
父親が映画会社の株主優待券を持っていまして、
それには鑑賞できる映画館の名前しか書いていなかったんです。 - 岩田
- なので、とりあえず映画館に行くと映画が見られたんですね。
- 坂上
- そうなんです。そこで、映画館に着くと
映画がはじまっていることが多くて、
でも、途中から観はじめるのもイヤだったので、
時間をつぶすためにゲームセンターに行きまして・・・。
- 岩田
- ああ、なるほど。
そこで、そうつながるんですね(笑)。 - 坂上
- そうです。
すみません、えらい遠回りな話になりましたけど(笑)。
ゲームとは、そのような出会いだったんです。 - 岩田
- 映画の時間待ちの間は、
どんなゲームを遊んでいたんですか? - 坂上
- 当時は『ゼビウス』(※3)を夢中になって遊んでました。
でも、最初はヘタなので、すぐに終わったりしたんですけど、
しだいにうまくなっていって、1時間とか・・・。
『ゼビウス』=ナムコ(現バンダイナムコゲームス)が開発したシューティングゲーム。1983年2月にアーケードゲームで登場し、84年11月にファミコン版が発売された。
- 岩田
- 100円あれば1時間、
きれいに時間をつぶせるようになったんですね。
ちなみに映画のほうは、何でも観たんですか? - 坂上
- けっこう雑食でした。
やっぱり、株主優待券次第のところもありまして(笑)。 - 岩田
- ああ、なるほど。
観たい映画があっても、選べないんですね(笑)。 - 坂上
- そう、選べないんです(笑)。
なのでB級映画もたくさん観ました。 - 岩田
- でも、そうやって映画をたくさん観たことは、
実はあとですごく役に立っていたりするんですよね? - 坂上
- はい。とても役に立ちました。
いろいろな映画を、好き嫌い関係なくたくさん観ましたので、
それぞれの作品に含まれるいろんなものが、
自分のなかに入ってきたように思います。 - 岩田
- すると、ビデオゲームの魅力を知りつつも、
映画をたくさん観て、その魅力にとりつかれたわけですから、
やっぱり映像の畑に進もうとされますよね。
- 坂上
- まさにおっしゃるとおりで、
映像業界に進むことにしました。
そこで、映像プロダクションに入社したのですが、
その会社では、それこそ映画から報道までなんでも・・・。 - 岩田
- そんなに幅広く映像を扱っていたんですか?
- 坂上
- はい。その映像プロダクションではカメラマンとか、
照明とか、録音さんなど、現場スタッフをたくさん抱えていたんです。
そのなかで僕は、入りたてのぺーぺーでしたので、
いろんな現場へ行かされていまして、
それはもう無茶苦茶な生活を送っていたんです。 - 岩田
- 具体的にはどのようなものだったんですか?
- 坂上
- 朝の5時くらいには会社にいまして、
まず撮影機材を調整して、それらをクルマに積み込んで
僕が運転するクルマで現場に向かうわけです。
で、取材が終わって、へとへとになって会社に戻ってくると、
「別の番組の編集にアシスタントでついてくれ!」
とか言われるんです。 - 岩田
- ぺーぺーなので、断れないんですね。
- 坂上
- そうなんです。
で、その編集の仕事が終わるのが、深夜の2時とかで。 - 岩田
- 午前2時に終わって、
朝の5時には会社にいなきゃいけないわけですから・・・。 - 坂上
- そう、3時間くらいしか寝られないんです(笑)。
もともと自分には「いずれ映画監督になりたい」
という夢があったんですけど、
そのような現場にずっといると、日本の映像づくりに対して
大きな疑問を感じるようにもなりまして。
当時はバブルということもあって、
次から次へと映像を録っていく必要があって、
しかも短時間でこなしていかないといけませんので、
たとえば音楽のプロモーションビデオを撮影するときも
周りで流行っている旬のものをモチーフにして、
「はい、一丁上がり」みたいな感じでつくっていたんです。 - 岩田
- じっくりと質の高い映像を制作するような環境とは
かけ離れていたんですね。 - 坂上
- はい。そんななかで、
「そもそも自分はいったい何をやりたかったんだろう」
と考えるようになって、もやもやしているときに、
NHKでたまたま「カンジ」(※4)というチンパンジーの
ドキュメンタリー番組を見たんです。
ピグミーチンパンジーのカンジはとても賢くて、
いろんな言葉の書かれたパネルを用意すると、
たとえばバナナが欲しいときは
「I want a banana」というパネルを押すんです。
「カンジ」=アメリカの大学の研究機関で飼育されていた天才チンパンジーのこと。音声の出るキーボードを使って、人と会話することもできた。1993年3月にNHKスペシャルで放送。
- 岩田
- 文字が認識できるチンパンジーだったんですね。
- 坂上
- ええ。で、そのチンパンジーはなんと、
『パックマン』(※5)をやっていたんです。 - 岩田
- え?チンパンジーが『パックマン』を遊んでいたんですか?
- 坂上
- そうなんです。
- 岩田
- はー・・・。
『パックマン』=ナムコ(現バンダイナムコゲームス)が開発したアクションゲーム。1980年にアーケードで登場。
- 坂上
- それは実験のひとつだったんですけど、
『パックマン』をはじめると、ルールをしだいに理解して
ずっと遊んでいたんです。 - 岩田
- つまりそれは、パワークッキーを取ったら青くなって、
モンスターと立場が逆転して、というルールを
チンパンジーがちゃんと理解して遊んでいた、ということですか? - 坂上
- そうです、そうです。
その映像を見たときに、なんというか・・・
雷にドカーンと打たれたような衝撃を受けたんです。
- 岩田
- それは確かにショックですね。
- 坂上
- はい、ものすごくショックでした。
そのとき、「ああ、そうか・・・」と思ったのは、
チンパンジーがビデオゲームを楽しめるということは、
もはやゲームは人種や文化に関係なく楽しめるものであって、
ワールドワイドなものなんだと。 - 岩田
- つまり、その当時の坂上さんは、
世界に通用するようなものをつくりたくて
映像の仕事にかかわったのに、
制作の現場では、それとはほど遠いことをやっていて、
そこからどうすればゴールにたどり着くか、
まったく見えなかったなかで、
『パックマン』がチンパンジーに受け入れられているのを見て、
「ゲームってワールドワイドだ!」と気づかれたんですね。 - 坂上
- そうです。それと同時に
「もともと僕はこういうものがつくりたかったんだ」
ということにも気づいたんですね。
それにもうひとつ、自分のなかで大きな壁が崩れたのは、
もともと「映像物」というのは、映画やテレビであって、
ゲームという選択肢は自分のなかにはなかったんです。 - 岩田
- でも、ゲームも「映像物」のひとつなんだということですね。
- 坂上
- はい。ゲームと「映像物」が
自分のなかでつながった瞬間でした。