『ニンテンドー3DS』ソフトメーカークリエーター 篇
第7回:『DEAD OR ALIVE Dimensions』
1. 天から降ってきたもの
- 岩田
- 今日はコーエーテクモゲームス(※1)の
Team NINJA(※2)さんのリーダー、
早矢仕さんにお訊きしたいと思います。
早矢仕さん、今日はご足労いただきありがとうございます。 - 早矢仕
- こちらこそ、よろしくお願いいたします。
コーエーテクモゲームス=2010年に、株式会社コーエーとテクモ株式会社が合併し設立した会社。本社は神奈川県横浜市。
Team NINJA=『DEAD OR ALIVE』『NINJA GAIDEN』シリーズなどを開発してきた、テクモ所属の開発チーム。
- 岩田
- 今日は、『DEAD OR ALIVE Dimensions』(※3)をはじめ、
Team NINJAさんのものづくりについても
いろいろお話をお訊きしたいと思っています。 - 早矢仕
- わかりました。よろしくお願いします。
『DEAD OR ALIVE Dimensions』=2011年5月19日に発売予定の、ニンテンドー3DS用ソフト。
- 岩田
- まず、早矢仕さんはビデオゲームにいつごろ出会いましたか?
- 早矢仕
- 僕は、小学校1年生のときです。
里帰りで年上のいとこの家に行ったんですが、
その家にファミコンがあったんです。
それがあまりに面白くて、弟とふたりでずーっとやってしまって。
親が「買ってあげるから・・・」と言ってくれたので、
ようやく帰りました(笑)。
- 岩田
- はじめての出会いで、いきなりはまり込んだんですね。
- 早矢仕
- はい(笑)。そのあと、親にはじめて買ってもらったゲーム機が
ファミコンと『スーパーマリオブラザーズ』(※4)でした。
『スーパーマリオブラザーズ』=1985年9月にファミコン用ソフトとして発売されたアクションゲーム。
- 岩田
- 小学校1年生の早矢仕少年が、
それほどゲームに引き込まれたのはどうしてなんでしょう? - 早矢仕
- それは多分、僕だけではなく、日本中の子どもたちが
一気にファミコンにのめりこんだ時期だと思うんですけど、
とにかくすべてが楽しかったんです。 - 岩田
- テレビのなかに、自分で操作するものが動いているだけで、
とっても不思議で、面白かった時代ですからね。 - 早矢仕
- そうですね。あと、僕の世代は
小学校のときにファミコンと出会って、
中学校の前にスーパーファミコンが出ましたから、
ちょうど歳をとるにつれて、それに合わせるかのように
ゲームがリリースされていくようでした。 - 岩田
- 自分の成長に合わせて、ゲーム業界が
新しいものを提供してくれた感じですかね。 - 早矢仕
- はい。あの・・・当時「ゲームをやると悪い子になる」って
よく言われていたんですが、
僕はゲームをずっとやりつづけて、31歳まで育ちましたので、
ゲームをしてもまっとうな大人にはなれる見本として
証明できたらうれしいな、と思っているんです(笑)。
いまでは、僕はゲームを仕事にしていますが、
あまり迷いなく、ここに来ている感じです。 - 岩田
- ビデオゲームをつくる側になりたいと思ったのはいつごろですか?
- 早矢仕
- それは小学校のころから思っていました。
小学校のころ、最初、ファミコンゲームというのは
“天から降ってきたもの”というイメージだったんです。
でも当時、『ドラゴンクエスト』(※5)の堀井雄二さん(※6)
というお名前だけは小学生全員が知っていて、
「どういう人なんだろう」という興味を持つと同時に、
「あ、ゲームは誰かがつくったものなんだ」って気づいたんです。
『ドラゴンクエスト』=1986年5月、ファミコン用ソフトとして発売されたRPG。
堀井雄二さん=『ドラゴンクエスト』シリーズの生みの親。
- 岩田
- 「ゲームをつくっている人がいる」と、はじめて認識したんですね。
ゲームデザイナーという言葉そのものが、
ある種、“夢の職業”に聞こえたんですよね。 - 早矢仕
- はい。それでゲームをつくるにはプログラムが必要で、
そのためには数学を勉強しよう、と。 - 岩田
- では、ゲームをつくる職業を目指すことが
勉強する動機になったんですね。 - 早矢仕
- そうです。当時から、しっかり勉強しないと
ゲームをつくれないということは
子どもながらに感じていましたから。 - 岩田
- あのころは「ゲームをつくるならまずはプログラムから」
と考える方が、いまよりも多かったような気がします。
わたし自身は、コンピューターゲームが登場して
それに触れたことがキッカケでプログラムに興味を持ち、
ビデオゲームにかかわるようになった典型的な人間なんですが、
いまは仕事の役割分担が細分化されているので、
必ずしもプログラムから入る方が多いわけではないと思います。
- 早矢仕
- 僕も、理系でプログラム側からゲームに来た人間ですけど、
ゲームづくりにとってプログラムを知っていることは
大事だなあと常に感じます。 - 岩田
- ゲームを考えるうえで強い武器ですよね。
「コンピューターには何ができて何ができないか」とか、
「何を変えると大変な手間がかかるか」ということが
わかったうえで判断できることは、
すごく有利なポイントですからね。
早矢仕さんは、いつごろからプログラムについて
考えはじめたんですか? - 早矢仕
- 大学時代にちょうどCというプログラム言語が
主流になっていて、それを勉強していました。
でも、テクモに入社するときは、
じつはプログラマーではなく、プランナーとしてだったんです。
プログラムだけだと少しきびしいかなと思って、
“プログラムのわかるプランナー”として売り込みました。 - 岩田
- テクモさんのゲームとの出会いは、いつごろでした?
- 早矢仕
- 昔、テクモがつくった『キャプテン翼』(※7)という
ファミコンゲームで出会いました。
僕らの小学校時代、『キャプテン翼』がものすごく流行っていて、
僕もサッカークラブに入っていたくらいなんですが、
あのゲームがものすごくインパクトがあったんです。
『キャプテン翼』=1988年にファミコン用ソフトとして発売されたサッカーゲーム。
- 岩田
- ゲームデザインが新しかったですからね。
当時のファミコンの仕様の制限のなかで、
じつに『キャプテン翼』らしく
サッカーを味わえるゲームでしたよね。 - 早矢仕
- そうなんです。その『キャプテン翼』と、
『忍者龍剣伝』(※8)がとても印象に残っていました。
それで東京のゲーム会社で就職先を探していたら、
ちょうどテクモに縁があったんです。
小学校のときに遊んでいたゲームのメーカーに
入社したことも、何かのご縁かなと思っています。
『忍者龍剣伝』=1988年にファミコン用ゲームとして発売されたアクションゲーム。
- 岩田
- 本当に、世の中には不思議なご縁を感じることが多いですね。
早矢仕さんは、どんな興味を持って
プランナーとしての道を選びましたか?
堀井さんへのあこがれも含めて、ゲームを企画面から
考えることの可能性や面白さに惹かれていたんですよね。 - 早矢仕
- はい。ただ、本格的なゲームづくりの経験はないわけですから、
どうすればゲームデザインとして技術を磨けるか、
ぜんぜん、わからなかったんです。
でも、その仕事がしたいという一心でプランナーを選びました。 - 岩田
- やっぱり、どんなものをつくるかを左右するところから、
かかわりたかったんですね。 - 早矢仕
- その通りです。