「スーパーマリオ25周年」
ファミコンとマリオ 篇
# 4. ファミコンカセットの集大成
- 岩田
- 『スーパーマリオ』が発売されるとき、
お2人は、どんなふうにこのソフトをご覧になっていたんですか? - 上村
- 僕は『スーパーマリオ』がつくられていることを
実は知らなかったんです。
とにかく他のことに忙しくて忙しくて(笑)。 - 岩田
- (笑)
- 上村
- 僕の仕事はいつもそうなんですけど、
「いつかファミコンがアカンようになったらどうしようか・・・」とか
つねに先のことを考える必要がありますから。 - 岩田
- それに当時はディスクシステム(※13)の発売前でしたしね。
そもそも『スーパーマリオ』は、
ものすごく鳴り物入りで登場したわけでもなく、
発売直後から火がついたわけでもなかったんですよね。
ディスクシステム=1986年2月に発売されたファミコンの周辺機器。正式名称は「ファミリーコンピュータ ディスクシステム」。メディアに磁気ディスクを採用し、ソフトを安価で書き込むことができた。
- 上村
- ええ、最初、みんなあまり知らなかったと思うんです。
- 岩田
- とにかくあの頃は
ゲームメディアみたいなものは出始めてはいたんですが、
まだそんなに事前にすごい話題になったという記憶もありませんし。
でも、触った人は例外なく、ものすごく引き込まれたんですよ。 - 上村
- そう。たくさんの人が引き込まれていました。
- 岩田
- 『スーパーマリオ』に火がついたと感じたのは
どのようなタイミングだったんですか? - 上村
- 正確な日時は忘れましたが、
『スーパーマリオ』が発売されてしばらくして
僕が東京に出張したときに、
たまたま山内さんと同じホテルに泊まったんです。
で、仕事が終わって部屋に戻ると、
山内さんから電話がかかってきて「ちょっと来てくれ」と。
「珍しいことがあるな」と思って、部屋を訪ねると
『スーパーマリオ』がものすごいヒットになりそうだ、
という話をしてくれたんです。
- 岩田
- はあー、そのようなことがあったんですか。
きっと、その日に、『スーパーマリオ』の大ヒットを
実感されたんでしょうね。 - 上村
- あの日のことは、いまでもハッキリ覚えています。
- 岩田
- 今西さんは、大ヒットすると感じたのは
どのようなタイミングでしたか? - 今西
- 僕は、あるメーカーの社長さんが挨拶に来られたとき、
「すごいゲームですなあ」と言ったことを覚えていて、
「これ以上のものはつくれませんよ」と。
この人がそう言うのだから、そうなるのかなと思いました。 - 上村
- 当時はディスクシステムの発売前で、
任天堂としては、そちらに向かいはじめていた時期でもあったんです。
でも逆に言うと、カセットでこれだけのバリューを
あれだけの容量のROMのなかでつくることができて、
しかもワールドワイドであれだけの数が売れるとは
社内の誰もが考えていなかったと思うんです。
けど、先ほど岩田さんがおっしゃったように、
『スーパーマリオ』を触った人たちは
例外なく引き込まれてしまったんです。 - 岩田
- あのときは、まさしく社会現象でした。
『スーパーマリオ』の裏技について、大人も子どもも
あらゆる人が語っていましたし。 - 上村
- そうでしたね。実は、当時のこんな写真がありまして・・・。
- 今西
- ほお、店の張り紙に・・・何て書いてあるんですか?
- 岩田
- 「『スーパーマリオ』と『ポートピア連続殺人事件』(※14)は売り切れです。
次回の入荷はまったく未定です。どうもすみません」・・・と書いてあります(笑)。
『ポートピア連続殺人事件』=1983年にPC版が、1985年11月にファミコン版が、エニックス(現スクウェア・エニックス)から発売されたアドベンチャーゲーム。
- 上村
- で、朝日新聞が発行していた
「アサヒグラフ」では、こんな特集を組んでいまして。 - 岩田
- 「まるかじりスーパーマリオ」・・・86年1月だから、
『スーパーマリオ』が発売されて4カ月たっているんですね。 - 上村
- 読者層を考えても、これは大人向けの攻略本なんです。
しかもどうやればいいのか、かなり詳しく書いてありました。 - 今西
- そもそも『スーパーマリオ』が登場する前は
テレビゲームの子どもへの影響について、国会でも取り上げられたり、
新聞記事なんかでも、マイナスの話が本当に多かったんです。
ところが、そんなファミコンへのマイナスイメージを
『スーパーマリオ』の明るさが
一掃してくれたようなところがありました。
- 岩田
- 圧倒的な明るさと深い面白さで
いろんなマイナス要素を塗りつぶしていったんですね。 - 上村
- いや、本当にそう思います、
暗さがまったくなくて、底抜けに明るいでしょう。
しかも、中身もひじょうに深いですし。
もうひとつは音楽の効果ですね。これもすごく大きいと思います。
テレビで取材されたときも、必ずあの曲が出てきますから。
で、店頭で鳴っていたら、そっちのほうに行きますし。 - 岩田
- いまでも、あの音楽を聴くと、
みなさん、当時のことをすごく思い出されて、
音楽を聴くだけで振り返ったり、
近くに寄ってきてくださったりということがあるんですよね。 - 上村
- そうです。だから、言わば『スーパーマリオ』は
“集大成”的なものであって、やっぱり中身が面白かったから
いろんな人を説得してしまったと、僕は実感しているんです。
というのも、『スーパーマリオ』の開発期間は
6カ月くらい・・・あるいはもっとかかったんでしょうか? - 岩田
- ええ、6カ月ではなく、もっとかかっていると思います。
- 上村
- そうですよね。
で、先ほどいろんなメーカーさんが
ソフトを出してきて大変だったいう話をしましたが、
実は、一方で、そういったソフトに助けられたことが
大いにあったと僕は思っているんです。 - 岩田
- 最初は任天堂1社だけでソフトを供給しなければならなかったのが、
『スーパーマリオ』が登場する頃には、いろんなメーカーさんから
いろんなソフトが発売されるようになっていましたから、
ソフトの開発に時間をかけることができるようになっていたんですね。 - 今西
- 僕には、ディスクシステム待望論に対する意地で
宮本くんがカセットでつくったという印象もあるんだけど。 - 上村
- いやあ、違います、違います(笑)。
- 岩田
- 宮本さんはロムカセットの“集大成”というつもりで
『スーパーマリオ』をつくったということはあったんでしょうけど、
『スーパーマリオ』とディスクシステムの『ゼルダ』(※15)は
同時につくっていましたからね。 - 今西
- ああ、そうかそうか。
『ゼルダ』=『ゼルダの伝説』。1986年2月に、ファミコンのディスクシステム用ソフトとして同時発売された、アクションアドベンチャーゲーム。
- 上村
- だから、ディスクシステムにも思い入れがあるはずなんですけど、
『スーパーマリオ』はとてもいい条件でつくられていて、
何よりも誰の期待もなかったというのが、逆によかったのではないかと。
なので、宮本さんが楽しみながらつくった感じがすごくしていて、
実際に遊んでみても、そういう要素をいっぱい感じるでしょう。
そういう意味で、あの頃にやりうる範囲で、
いちばん楽しいと思えることを全部盛り込んじゃったと。
その意味で“集大成”のソフトだと思いますし、
しかも、そういったことを盛り込める時間が十分にあって、
それができたのはソフトメーカーさんのおかげだろうと
僕は思っているんです。
- 岩田
- 自社だけでソフトをつくっていた時代には
自転車操業的に3カ月で1本つくることを求められていたのに、
ソフトメーカーさんの参入によって
時間を与えてもらえるようになったので、
つくりこみの度合いが、当時としては傑出したものになった、
ということですね。 - 上村
- だと思います。・・・というのが僕の説です。
- 今西
- 確かに当時のソフト供給義務というか、
それはとても大きな負担でしたからね。 - 岩田
- ただ、一度どんなに素晴らしいものができても、
その価値が保たれ続けることがいかに難しいかは
世の中でたくさんの事例を見ることができますよね。
でも、『スーパーマリオ』は25年経ったいまも、
たくさんの人に愛され、支持されている理由は
どんなところにあるんでしょうか。 - 上村
- そもそも基本的な“遊び”で言うと、
それほどたくさんの種類があるわけではないと思うんです。
それまでに誰もが思いつかなかった良いところを、
いちばん最初に『スーパーマリオ』が
バチッと押さえてしまったんじゃないかと思います。 - 岩田
- だから、このジャンルの王様になれたということですか。
- 上村
- だと思います。
- 岩田
- 宮本さんは『ドンキーコング』で
マリオの原型のキャラクターをつくったときに、
「ミスター・ビデオ」と名付けていて、
自分のつくるゲームには全部出したいと考えていたらしいのですが、
『スーパーマリオ』で本当に「ミスター・ビデオ」にしちゃったわけですから。 - 上村
- そうですよね。それはすごいことだと思います。
- 今西
- 「ミスター・ビデオ」の前は確か「おっさん」でしたね。
- 岩田
- そうそう「おっさん」です(笑)。
最初は「おっさん」とか、「ジャンプマン」という名前で、
「マリオ」と呼ばれるようになったのは、だいぶ後からなんですよね。