「スーパーマリオ25周年」
『スーパーマリオ』生みの親たち 篇
# 2. 入社1年目の新人も
- 宮本
- 最初に書いた仕様書の画面の絵には
「おじゃま」って書いてあるでしょう。 - 岩田
- ああ、「敵」ではなく、「おじゃま」だったんですよね。
業務用の『ドンキーコング』(※6)をファミコンに移植するとき、
「おじゃま」という用語を使っていたのをわたしも覚えています。
もともとは「じゃまをするもの」だったんですね。 - 宮本
- もともとは「おじゃま虫」なんです。
それで、海外スタッフに通訳する際、
「おじゃま虫とは、どのような虫なのですか?」と
マジメに質問されて、ものすごく困ったことがありました(笑)。 - 岩田
- (笑)
業務用の『ドンキーコング』=1981年に登場したアーケードゲーム。1983年にファミコン版が発売。
- 宮本
- そのときは「オブスタクル(obstacle)」と訳されたんです。
- 岩田
- 「障害物」ですね。
中郷さんの物持ちのよさのおかげで、
25年経ったいまも、いろいろなことがわかりますね(笑)。 - 中郷
- さっき、空を飛ぶ話がありましたけど、
これがそのときの仕様書なんです。
- 岩田
- へえ〜、この時点ではロケットではなく、
きんと雲にマリオが乗ってますね。
これはいつ頃に書かれたものなんですか?
日付のハンコがありませんけど。 - 中郷
- 最初の仕様書よりはもちろん後ですが・・・。
- 宮本
- これ、手塚さんの絵ですね。
- 手塚
- そう、日付を書いてないので、たぶん僕のです。
- 岩田
- なるほど、そこに性格が出るんですね(笑)。
- 手塚
- ふふふ(笑)。
- 宮本
- 手塚さんは当時新人だったんですけど、
好きなことを言うんですよ。
「雲に乗って自由に空を飛びたい」とか。
ですから
「それがしたいのやったら、自分でちゃんと描いてみて」と。 - 岩田
- それで書いてもらったのがこの仕様書なんですね。
- 中郷
- 最終的に空を飛ぶ仕様はなくなってしまいましたけど。
- 岩田
- 当時、新人だったという手塚さんは
ファミコンが出た翌年の1984年の4月入社ですよね。 - 手塚
- はい。近藤さんといっしょに入社しましたので。
- 岩田
- おふたりは同期なんですよね。
- 近藤
- そうです。
- 岩田
- ということは、入社2年目のときに
『スーパーマリオ』が完成したわけですから、
この最初の企画書が書かれたとき、手塚さんも近藤さんも
まだ入社1年目の新人だったということなんですよね。 - 手塚
- はい。
- 近藤
- そうですね。
- 岩田
- まだ新人だったおふたりが
入社1年経ずに『スーパーマリオ』の開発にかかわり、
ちゃんと重要な役割を果たしたというのは
いろんな意味ですごいことですよね。 - 宮本
- あの当時、手塚さんが入って来る前は、
デザイナーの仕事を僕ひとりでやっていましたから、
2人になるというだけで、もう本当に助かって(笑)。
2人が入ってきたときは
『デビルワールド』(※7)が途中までできていたので、
それを手伝ってもらったんです。 - 岩田
- じゃあ、手塚さんのデビュー作は『デビルワールド』なんですか?
- 宮本
- 確かアシスタントディレクターでした。
- 手塚
- はい。お手伝いです。
- 岩田
- 近藤さんも『デビルワールド』がデビュー作なんですか?
- 近藤
- はい。
- 宮本
- で、そのあと僕は中郷さんといっしょに
『エキサイトバイク』(※8)をつくることになって、
僕が描いた絵を手塚さんに仕上げてもらったりしながら、
『スパルタンX』(※9)に入ったんですけど、
そのとき手塚さんは・・・? - 手塚
- 『スパルタンX』では何もしませんでした。
- 近藤
- 僕はちょっとお手伝いしました。
- 宮本
- 効果音を手伝ってもらったんですよね。
- 近藤
- はい。
『デビルワールド』=1984年10月に、ファミコン用ソフトとして発売されたアクションゲーム。
『エキサイトバイク』=1984年11月に、ファミコン用ソフトとして発売された、サイドビューのレースゲーム。
『スパルタンX』=1985年6月にファミコン用ソフトとして発売されたアクションゲーム。
- 岩田
- ちなみに近藤さんは最初から音楽の人として、
任天堂に入ったんですか? - 近藤
- そうです。僕ともうひとりが
音楽スタッフとして初めて採用されました。 - 岩田
- 音楽社員、第1号だったんですね。
- 近藤
- はい。それまでは田中(宏和)さん(※10)のように、
プログラムなどの仕事をしながら
音楽をつくっていた人はいたんですけど。
田中宏和さん=株式会社クリーチャーズ代表取締役社長。任天堂在職中に『バルーンファイト』や『Dr.マリオ』『MOTHER』など、数多くの音楽を担当する。
- 岩田
- 昔は、技術の人も音楽をつくりましたからね。
わたしもファミコン黎明期には効果音をつくったりしました。
いまでは考えられないですけど(笑)。
そもそも音楽の専門家が必要だというのは、
会社のなかで自然にそういう空気になったんですか?
それとも宮本さんが主張されたんですか? - 宮本
- 僕以外にもそういった声はあったと思いますけど、
『ドンキーコング』の頃から、田中さんのほかに
曲を書ける人がいなかったので、
サウンドの専門家に入ってもらわないと困る、
という話はよくしていました。
それは音楽だけでなく、デザイナーもそうで、
「これからの時代は絶対に必要や」と言っていました。 - 岩田
- まさに分業がはじまろうとしていた時期だったんですね。
- 宮本
- そうですね。
で、『スパルタンX』の後に
『スーパーマリオ』をつくることになって、
サウンドは近藤さんを指名したんです。 - 岩田
- 近藤さんがいいと思ったんですね。
それはどうしてなんですか? - 宮本
- 『デビルワールド』のボーナス面の歌をつくりまして、
このような姿勢がとてもよかったからです。 - 岩田
- 『デビルワールド』の歌、ですか?(笑)
- 宮本
- はい、近藤さんが曲を考えて、
手塚さんが歌詞を書いて、
「おもろいから取扱説明書に入れよう!」と。 - 岩田
- 「おもろいから」(笑)。
- 宮本
- あの当時は、若い人が入社してきて、
いっしょに仕事をするのがすごく面白かったんです。
- 岩田
- その『デビルワールド』の楽譜は残っているんですか?
- 近藤
- 歌詞を書いたのがどっかにあったんですけど・・・。
- 宮本
- ボーナス面に「♪タラッタラ、タラッタラ」という曲があるんですけど、
「♪これかな あれかな どれかな」っていう歌で。 - 一同
- (笑)
- 中郷
- それ聴いたことあります(笑)。
- 宮本
- そもそもゲーム音楽に歌詞をつけて、
取説に楽譜と歌詞を載せるようなことは、
あの当時、誰もやっていないことでしたのでどんどんやろうと。 - 岩田
- 誰もやっていないことだからと言って、
新入社員をけしかけたんですね。 - 近藤
- でも、残念ながら最終的には載らなかったんですが(笑)。
- 一同
- (笑)