『マリオ&ソニック AT ロンドンオリンピック™』
- 岩田
- 今日はよろしくお願いいたします。
- 一同
- よろしくお願いいたします。
- 岩田
- 今回は「社長が訊く」の
『マリオ&ソニック AT ロンドンオリンピック™』ということで、
セガさんと任天堂のスタッフに集まっていただきました。
まず、このソフトで何を担当されたかということと、
過去の『マリオ&ソニック』とのかかわりについても
いっしょにお話しください。 - 大橋
- はい。では、わたしから。
セガでチーフプロデューサーをしています大橋です。
わたしは今回、セガ側の全体の責任者として、
予算管理や方針の決定をしたり、開発環境の整備をしたり、
ゲーム内容についての大きな決定や社内調整をしたりと、
プロジェクト全体にかかわる立場で携わってきました。
- 岩田
- 大橋さんは、このシリーズで最初に発売した
『北京オリンピック』(※1)から
かかわってこられたんですよね。 - 大橋
- そうです。
最初の『北京』のとき、そしてそのあとに発売した
冬季の『バンクーバーオリンピック』(※2)のときも、
プロデューサーとしてかかわりました。
今回はプロデューサーを含め開発スタッフの人数を増やしましたので、
セガ側のチーフプロデューサーとして参加しました。
『北京オリンピック』=『マリオ&ソニック AT 北京オリンピック™』。Wii版は2007年11月に、DS版は2008年1月に発売されたスポーツゲーム。
『バンクーバーオリンピック』=『マリオ&ソニック AT バンクーバーオリンピック™』。Wii版、DS版ともに2009年11月に発売されたスポーツゲーム。
- 岩田
- 「開発人数を増やした」ということですが、
今回の『ロンドンオリンピック』は、
この『マリオ&ソニック』シリーズとしては、
セガさんにとって、最大の開発規模になったんですか? - 大橋
- はい。今回は遊べる競技数が増えましたし、
キャラクターのモーション数も万単位でつくっています。 - 岩田
- いま、「モーション数を万単位でつくってる」
とサラッと話されましたけど・・・
そこまでつくるソフトはあまりないですよね。 - 大橋
- ええ、そう思います。
キャラクターは20人出てきて、
しかも、それぞれがアクションゲームの主人公のような
モーション数を持つことになりますので、
それこそ膨大な数になります。 - 岩田
- キャラクターが走ったり、跳んだり、投げたり、
泳いだり、打ったりと、いろんなスポーツをするので、
そのぶんモーション数が増えることになるんですね。 - 大橋
- はい。しかも、マリオ系は任天堂さん、
ソニック系はセガの内部で
監修してもらう必要がありますので、
その監修対応のスタッフであったり、
当然、オリンピックのライセンス担当、
そして海外との交渉担当も充実させましたので、
人数が徐々に増えていきました。
しかも、発売タイミングが重視されるタイトルなので・・・。 - 岩田
- そうですよね。
ロンドンオリンピックは
2012年の7月に開催されることは決まっていますから。 - 大橋
- だから、その前に出さなきゃいけない、ということで、
最初は100人だったのが、130人になり、
150人という具合にどんどん増えていきました。 - 岩田
- セガさんの開発者だけで150人ですか?
- 大橋
- はい。最大時は
150人以上いたんじゃないかと思います。 - 岩田
- わかりました。
では、笠原さん、お願いします。 - 笠原
- 今回の『ロンドンオリンピック』で
ディレクターをつとめました、セガの笠原といいます。
最初の『北京』のときは、Wii版とDS版のディレクターを、
次の『バンクーバー』ではDS版のディレクターを担当しました。
基本的にはゲームの中身を制作する仕事で、
操作方法やルールを含めた遊びの内容を決定したり、
クオリティやスケジュールの管理なども行っていました。
また、これら以外に、
任天堂さんとの窓口業務もしていました。
- 岩田
- 笠原さんは『北京』のときからずっと、
現場でこのシリーズにかかわってこられたんですね。 - 笠原
- はい。5年間どっぷりと(笑)。
- 岩田
- では、任天堂側から
それぞれ自己紹介をお願いします。 - 山根
- 任天堂の山根です。
任天堂側の主担当を受け持ちました。
このシリーズには、
今回、はじめてかかわることになりましたが、
いつも仕事でUI(ユーザーインターフェース)、
グラフィックスなどを監修している
自分の持ち味を意識してプロジェクトに取り組みました。
- 渡辺
- 任天堂の渡辺です。
わたしは、最初の『北京』『バンクーバー』、
そして今回の『ロンドン』と、ずっとかかわっています。
で、『北京』のときは、当時のわたしはまだ
新入社員でしたから、1年目からかかわっています。
- 岩田
- つまり、自分の社会人人生とともにあるんですね。
- 渡辺
- はい。その結果、
セガさんとのおつきあいも長くなって、
今回は任天堂とセガさんの間で
潤滑油的な存在になりたいと思っていたんですけど、
結果的には、セガさんに対して文句ばかり言う人・・・
みたいな感じになってしまいました。 - 岩田
- はい(笑)。
でもまあ・・・1本のソフトというのは、
たくさんの人のエネルギーが注ぎ込まれるものですから、
平穏無事にできるものではありませんよね。 - 渡辺
- そうですね。
- 岩田
- ましてや、セガさんと任天堂を
それぞれ代表するキャラクターが登場し、
オリンピックという大きな舞台もあって、
そのうえで、実在するスポーツ競技との兼ね合いのなかで、
「どうすれば、面白い遊びになるのか?」
ということを山ほど考える必要があるでしょうから。 - 大橋
- まったくそのとおりです。
- 岩田
- それに、改めて考えてみると
3作目となったいまでは
当たり前のようにつくられているこのソフトも、
かつての常識から言うと、
ありえない話だったわけですからね。 - 大橋
- はい。
- 岩田
- 『北京オリンピック』の頃の話に戻りたいんですけど、
セガさんの内部では、どんな話からはじまったんですか? - 大橋
- もともと、任天堂さんとは以前から
「ソニックとマリオで何かできないか?」
という話があったことは聞いていたんです。
そこに、セガがオリンピックのライセンスを取ることになり、
「この3つをセットにした企画を進めてほしい」
という話が、わたしのところに回ってきました。 - 岩田
- その当時、大橋さんは何をされていたんですか?
- 大橋
- わたしは当時、
ソニックをつくる部署にいたわけではなくて、
スポーツゲームをつくっていました。 - 岩田
- もともとスポーツゲームが専門であって、
ソニックと特別な縁があったわけではないんですね。 - 大橋
- ええ。まあ、厳密に言いますと、
わたしが入社していちばん最初にかかわったゲームは
メガドライブの『ソニック3』(※3)でした。 - 岩田
- じゃあ、かかわりはあったわけですね?
メガドライブの『ソニック3』=『ソニック・ザ・ヘッジホッグ3』。セガが1994年5月に発売したアクションゲーム。メガドライブは同社が開発し、1988年10月に発売された家庭用ゲーム機。
- 大橋
- いえ、当時は新入社員でしたし、
そのあとの十数年間は、
『ソニック』をつくったことがなかったので、
そういう意味ではまったくやっていないのに等しいです。
そんなわたしのところに、その話が来まして、
「これを任天堂さんに提案するかたちに
なんとか持っていけないか」と・・・。 - 岩田
- あの、あえて言いますが、まず最初は
会社からの「無茶ぶり」があった、ということですね?
- 大橋
- はい、そうなります(笑)。
- 岩田
- でも、引き受けた大橋さんとしては、
「とても大事なプロジェクトだからなんとかしなきゃいけない」
という状況だったんですね。 - 大橋
- はい。オリンピックのライセンスも
すでに取得済みということでしたので、
これは失敗するわけにはいかない、と思いました。 - 岩田
- 笠原さんは、最初にこの話を聞いたとき、
どんな感想を持ちましたか? - 笠原
- これは楽しそう、面白そうだなと(笑)。
- 岩田
- めったにない機会ですからね。
- 笠原
- はい。自分としては、
やってみたい気持ちはあったんですが、
「実現するのはなかなか難しいだろうな」
とも同時に思っていました。
そこで、とりあえず企画書を書きまして、
任天堂さんにプレゼンテーションをしたんですが、
宮本(茂)さんから
「実際にオリンピックのゲームのなかで、
マリオとソニックが出ているものを見て判断したい」
と言われたんです。 - 岩田
- 「紙の企画書だけでは判断できない」
ということですね。 - 笠原
- はい。そこで東京に戻って、
実際に動くデモをつくりまして、
それでなんとかOKをもらったという・・・。 - 大橋
- 決まるまで、ヒヤヒヤものでした。
- 笠原
- そうでした。
僕は実現できるとは思っていませんでしたし(笑)。 - 岩田
- そう思うくらい、
前例のないプロジェクトだったわけですね。
何しろ、マリオとソニックの共演ははじめてですし、
しかも、オリンピックという大きな舞台で
キャラクターを使ってゲームをつくる、というのも
はじめてのことでしたから。 - 笠原
- なのでプレッシャーがすごく大きかったですね。