『The Wonderful 101』
1. ファミコン長者
2. リアル信者バトル
3. 「遊んできたものの中に、答えがある」
4. 三上さんとの出会い
5. 「ゲームの神様が降りてくる」
4. 三上さんとの出会い
- 岩田
- カプコンさんでのお話が出たところで、
神谷さんがカプコンさんに入社するにいたった
経緯を教えてもらえませんか? - 神谷
- 僕は、さっき言ったように、
ゲームデザイナーを本気で目指して
生きてきたわけではなかったので、
「大学卒業したら地元に帰って就職する」って
松本の両親には伝えていたんです。 - 岩田
- はい。
- 神谷
- それで地元でも就職活動をして、
実際何社か内定をもらっていたんですね。
でも一方で「ゲームをつくりたい」という
気持ちはあったので、
誰にも言わずに、大手のゲームメーカーにひと通り、
企画書を添えてエントリーはしていたんです。
それこそ、もちろん御社も・・・。 - 岩田
- あっ、そうだったんですか(笑)。
- 神谷
- たしか任天堂さんは
プランナーの募集をしてなかったんで、
一方的に企画書を送りつけて
人事の方に電話もしたんですけど、
「募集していません」って言われました。 - 岩田
- それは、申し訳ありません。
- 神谷
- いえいえ(笑)。
- 岩田
- 当時神谷さんが書いた企画書というのは
どんなものだったんですか? - 神谷
- 僕はもともと文章で説明するのが
苦手だったので、企画書を絵で描いたんです。
キャラクターはもちろん、
ゲーム画面もステージもぜんぶ絵で、
プレイの様子も「こんな感じです」というふうに。
結果的にはカプコンと、ナムコさんにも
内定をいただいているんですが、
たぶんその企画書のスタイルが
めずらしかったんだろうと思います。 - 岩田
- なるほど。それで神谷さんは
どうしてカプコンさんを選ばれたんですか? - 神谷
- 正直に言うと、自分の中ではナムコが好きで
すごく悩んだんですけれど、ナムコさんのほうは
「デザイナー採用でよければ」という
ことだったんですよ。いま思えば
「どちらからはじめても一緒だったなぁ」
とは思いますけれどね。
デザイナーからプランナーに転向する
人間も普通にいますから。 - 岩田
- そうですね。
いっぱいいらっしゃいます。 - 神谷
- ただ結果的に、
これは自分で選んだことではないんですけど
三上さんの部署に入れてもらえたことが、
いちばん運がよかったと思っています。
- 岩田
- 師匠が三上さんだったこと、ですか。
- 神谷
- そうですね。そこは本当に、感謝しています。
おおげさじゃなくて、そうじゃなかったら
いまの僕はいなかったと思います。 - 岩田
- それは具体的にはどんなことですか?
- 神谷
- いまここで自分の言葉のように、
えらそうにゲームのこだわりとか言ってますけど、
カプコン入社当時の僕は、実際そんなに
こだわりはなかったと思うんです。 - 岩田
- ゲームは大好きだし、
そこにエネルギーはあるけれど、
こだわりはなかったということですか? - 神谷
- そうですね。志はあるんですが、
やっぱりそれなりにしんどいことが多くなると、
どこかで「これでいいや」となっていたんです。
そのぬるい根性を徹底的に
たたき直されたことが大きいですね。 - 岩田
- それはやっぱり、体育会系的に?
- 神谷
- はい。もう物理的に(笑)。イスをけられて
「ここでふんばらないとゲームがどうなるか
おまえらわかってんのか!」とか。
僕はカプコンに入ってはじめて入ったチームが
『バイオ』の1作目(※26)なんですけど、
そこで三上さんの下について、
プランナーをやらせてもらったんです。
『バイオ』の1作目=『バイオハザード』。1996年3月に、カプコンより発売されたホラーアクションアドベンチャーゲーム。
- 岩田
- 『バイオ』の最初からですか?
- 神谷
- 入社した時に企画はもう走っていたんですけど、
まだ『3Dホラー』という仮称の状態で、
研究とチャレンジをくり返していたところでした。
カプコンとしても本格的なポリゴンゲームは
それがはじめてだったんですね。 - 岩田
- そうでしたね。
- 神谷
- 当時の僕は、2D一辺倒だったカプコンのゲームに
ちょっとがっかりしていたときだったので、
入社時の研修ではじめて見た時から、
「これはすごい、このチームに入りたい!」
と心の中で思っていたんです。
あとから聞いたんですけど、
映画的なゲームだったので、ちょうど
絵コンテを描ける人間をチームに入れたいと
考えていたらしいんですね。 - 岩田
- あっ、そこで絵入りの
企画書が目に留まったわけですか。 - 神谷
- そうですね。そこで
「こいつは絵が描ける」ということで
『バイオ』チームにひろってもらいました。 - 岩田
- 三上さんからはどんなことを学びましたか?
- 神谷
- 「ディレクターがゲームの軸の責任を持つ」
というチームのスタイルを、カプコンで
はじめてつくったのが、三上さんだったんですよ。
それまではカプコンの社風的に
「ゲームはみんなでつくろう」
という雰囲気が、僕が新入社員で入った頃にも
まだあったんですね。
だからその「ディレクターの権限は絶対」という
新たな仕組みに対する反動や衝突があって、
僕も当時はしょっちゅう反発していたんです。 - 岩田
- はい。
- 神谷
- たとえば現場としては
アクション性を高めるのは当然だという思いで
「プレイヤーの動きをもっと早く」とか
目先のストレスだけを訴えるんですけど
「いや、これは怖さがテーマだからこれでいい」
と言って、ガンとして受けつけなかったり。
でも最終的に完成したものを遊んだ時
「あぁ、三上さんが絶対ゆずらなかったのは
こういうことなんだ」
という部分が、明確に理解できたんですね。 - 岩田
- 三上さんにだけ見えていたモノがあって、
いちスタッフの自分には見えてなかったことを
思い知らされたわけですね。
- 神谷
- そうですね。
- 岩田
- その三上さんが実践したやりかたは、
神谷さんがディレクターをやるときの
参考になっているわけですか? - 神谷
- そうですね。でもその直後に
三上さんからディレクターをまかされた
『バイオ2』では、大失敗をしているんです。
あがってくるものに対してOKをくり返した結果、
まあとんでもないものになってしまって。
そこまで1年半くらいかけてつくったものを、
台無しにしてしまったんです。 - 岩田
- ディレクターは結果に対して全責任を負うからこそ、
すべてを決める権限が与えられているわけですからね。 - 神谷
- だから、ダメになったのはぜんぶ、
ディレクターである僕のせいなんです。
その時の『バイオ2』は当時のカプコンの
新たな看板タイトルとして注目されていたので、
その結果は社内にもすぐに広まりました。
社員食堂で食事をとっているときも、
「あいつだぜ、『バイオ2』ダメにしたやつ」
みたいな妄想の声や視線をすごく感じて。
あれは本当にショックで、つらかったですね。 - 岩田
- 入社3年かそこらの若さでの経験としては
相当重いものだったでしょう。 - 神谷
- でも、それでも三上さんは
僕にディレクターを続投させてくれたんです。
「こいつは失敗したからダメだ」ではなくて。 - 岩田
- 「失敗したからこそ、何かつかんだはずだ」と。
- 神谷
- はい。そのチャンスをもらえたことは
本当に大きかったです。
そこでなぜダメだったのか徹底的に考えました。
ビジョンのないままに意志決定をしていたし、
いろんなプレッシャーの中で
自分のOKラインを下げていたんですね。
あとは何より、
それをしたことで起きた最悪の結果を
身をもって知ったことが大きくて。
- 岩田
- つらいと同時に、ある意味
ものすごく恵まれた体験をされましたよね。 - 神谷
- それは本当に、思いますね。
- 岩田
- 一度失敗したのに
「おまえを信じてもう一度」と、
三上さんはよくぞおっしゃったと思います。
三上さんは神谷さんの中にある何かを
見いだされていたんでしょうね。